「監督が来たら知らせろ…」
子どものころ、私が所属していたサッカーチームには変わった監督がいた。
サガラさんという人だ。
今なら驚かれるかもしれないが、その監督はほとんど練習に来なかった。
月に1回くらいだったと思う。
昼間は造船関係の仕事をしていた。年中肌は丸焦げだった。
忙しくて来られないのかと思っていたが、おそらくそうではなかった。
仕事が終わると仲間と立ち飲みに行っていたのだと思う。
たまにグラウンドへ現れる時は、顔を真っ赤にしていた。
しかも、自転車でふらつきながらやって来る。
私たちは練習の際、グラウンドの端に低学年を立たせていた。
「監督が来たら知らせろ」

見張り役である。
だから、私たちは なるべく遠くからサガラ来襲を察知できた。
サガラがグラウンドに到着するまでの間にたらたらとやっていた練習の雰囲気を刷新する。
みんなで声を出し合い、気合が入っている風の練習を演出したものだ。
サガラさんは当時40代、とても怖かった。
今思えばひどい話だが、それくらい警戒していた。
サガラさんは褒めない。
本当に褒めない。
ミスを見つけると、その子のところへゆっくり歩いていく。
そして低い声で聞く。
「なんでそんな動きなんだ?」
子どもには分からない。
何を聞かれているのか。
どう答えればいいのか。
沈黙が続く。
すると、
バチーン!
と大きな音がする。
振り向くと、誰かがビンタされている。
そんな時代だった。

サッカーのルールも知らずに試合へ
私がサッカーを始めたきっかけは兄だった。
兄の試合を見に行った時、サガラさんに声をかけられた。
「お前、足速いんだろ?」
そして、そのまま言われた。
「下級生の試合出てみろ」
サッカー経験はほとんどなかった。
ルールもよく分かっていなかった。
それでも試合に出た。
「走って、相手からボールを奪って、ゴールの中に入れてこい」
「ふ~ん」と思った私は、とにかくボールを追いかけた。
相手にぶつかる。
ボールを奪う。
また追いかける。
キーパーが持っていても関係ない。
突っ込んでいく。
キーパーごと倒してしまう。
そしてシュートする。
今思えばむちゃくちゃだ。
でもベンチは大盛り上がりだった。
「いけー!」
「そのままだ!」
大人たちは笑い、子どもたちは歓声をあげていた。
たぶん、その頃からサガラさんの目に留まっていたのだと思う。
3年生でレギュラーになった代償
3年生になると、私は突然、上級生チームのレギュラーになった。
そして、サガラさんは練習に来るようになった。週5のうち3~4日は来ていたかな。
私のポジションは真ん中のフォワードだった。
もちろん意味など分からない。
ただ試合に出られるのがうれしかった。
けれど今振り返ると複雑な気持ちになる。
私が試合に出ることで、出場機会を失った上級生がいた。
同学年にも試合を見ているだけの子がいた。
当時の彼らが何を思っていたのかは分からない。
でも、今なら少し考えてしまう。
一方の私は何も分からなかった。
フォワードと言われても、
どうやってボールを受けるのか分からない。
どこに走るのか分からない。
ボールが来たら、
ドリブルなのか。
パスなのか。
シュートなのか。
何一つ分からない。
だから、とにかく走るしかなかった。

怒られ続けた半年間
そんな私を見てサガラさんはいつも怒鳴った。
「なんでそこへ走るんだ!」
「なんでそこで受けないんだ!」
毎週のように怒られた。
ただ困ったことに、私は何を言われているのか理解できなかった。
どう動けばいいのか説明はない。
なぜそこが悪いのかも分からない。
だから改善できない。
改善できないから怒られる。
怒られるから萎縮する。
その繰り返しだった。
私は徐々に思うようになった。
試合中、
「お願いだから俺にパスしないでくれ」
と。
ボールが来たら失敗する。
怒られる。
何をしていいか分からない。
そのうち声も小さくなった。
するとサガラさんはさらに怒った。
近づいてきて、
バチーン。
バチーン。
バチーン。
とビンタされる。
半年くらい続いただろうか。
練習をさぼるようになった
サッカーが好きで始めたはずだった。
それなのに、だんだん行きたくなくなった。
練習をさぼるようになった。
親には「行ってくる」と言って練習着を着て、家を出る。
でもグラウンドには行かない。
友達の家で、サッカーの赤いソックスを履いたままゲームしていた。
今思えば、かなり追い込まれていたのだと思う。
何を求められているのか分からない。
どうすれば認められるのか分からない。
出口が見えなかった。
試合中に見つけた一つの答え
そんなある公式戦の日だった。
私は一つだけ決めたことがあった。
大きな声を出そう。
卑屈になるのが嫌だった。
プレーは分からない。
動きも分からない。
だけど声だけは出す。
だから試合中、
「よこせ!」
「ここだ!」
大声を出しながら走り回った。何も分からないまま。
周りも見えていない。
プレーもむちゃくちゃだった。
みんなの前で立たされて…
ハーフタイムになった。
サガラさんが選手たちを集めた。
なぜか保護者たちまで呼んだ。
そして私を指差して言った。
「この子を見てください」
「今まで声も小さくて消極的でした」
「でも今日は違います」
「この子が一番声を出しています」
「この子は変わろうとしています」
「この子を見てください、みんな見習ってください」
初めて…
初めて…褒められた
私はその場で泣いてしまった。
本当に泣いた。
ああ。
これで良かったんだ。これが正解だったんだ。
初めてそう思えた。
サガラさんの声は少し震えていたような気がする。
積極的に取り組むこと。
挑戦すること。
当時の私は、何か分からないけど認められたことが何よりうれしかった。
チームの中心になっていく
不思議なもので、その頃から少しずつ周りが見えてくるようになった。
学年が上がるにつれて、
チームメイトの動きが見えるようになった。
自分がどうしたいのか。
味方に何をしてほしいのか。
少しずつ考えられるようになった。
すると以前ほど大声を出さなくても良いことが分かった。
というか、毎試合毎試合大声を出すのは正直疲れるし、恥ずかしい。
落ち着いてプレーできるようになった。
5年生になるとトップ下を任されるようになった。
その後、キャプテンをやってほしいと言われた。
ただ私は断った。
サッカー以外にも興味が広がっていた。
勉強もあった。
親もサッカー一色になることを望んではいなかった。
週5日の練習は、週3日、週2日へと減っていった。
サガラさんは何を教えたかったのか
今振り返ると、サガラさんはどう指導したかったのだろう?
チームを強くしたかった。
子どもたちを勝たせたかった。
サガラさんの気持ちに嘘はなかったはずだが、何かを教わったという感覚は正直なところ“ない”。
当時の指導は、当時の普通だったはず。
ただ、これがかつての指導の現実なのだと思う。
積極的に挑戦する姿勢は大事だ。
うまくできるかどうかとは別に、
前へ出る気持ちは必要だ。
それは今でもそう思う。
ただ、それと指導の良し悪しは別の話だ。
今なら違う指導ができると思う
今振り返ると、やはり子どもだった私は追い詰められすぎていた。
サッカーが好きで始めた子どもが、
練習をさぼり、
親に嘘をつき、
サッカーへ行きたくなくなる。
それはおかしい。
もし当時、
「ここへ走る理由はこうだよ」
「フォワードはこうやって受けるんだよ」
「今のプレーの良かったところはここだよ」
そんな説明があったらどうだっただろう。
私はもっと早く理解できたかもしれない。
もっと楽しく成長できたかもしれない。
私の人生は少し変わっていたかもしれない。
ジュニアサッカーの指導は、そういう局面が潜んでいることを指導者、保護者は強く認識すべきだ。
今は世界中に優れた指導法がある。
コーチングの理論もある。
子どもの発達に関する研究もある。
だから指導者は学び続けなければならないと思う。
怒鳴ることではなく、伝えること。
恐怖で動かすことではなく、理解して動けるようにすること。
その方が子どもは伸びる。
私はビンタと怒号の時代を経験した。
だからこそ言える。
もっと良い指導方法はある。
子どもたちは、その方がずっと成長できる。



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