怒鳴る指導で子どもがサッカーを辞めるのは、どうなんだろう― 指導と「尊重」について考えたこと

“見る目”

子どもが辞めてしまう環境は、誰のためのものか

2020年に改正児童虐待防止法が施行され、親による子どもへの体罰が禁止された。

それでも「しつけが必要だ」という声は、いまでも根強いように感じる。

 

古い価値観であっても、同じ考え方の人たちの中にいると、それが当たり前のように見えてしまうことがある。

 

こうしたことは、サッカーの指導の現場でも起きているのではないかと思う。

 

子どもが辞めてしまうほどのチームの環境とは、いったい誰のためのものなのか。

 

大人であるコーチが大きな声をあらげ、叱責する。

その状況が、子どもにとって本当に良い環境なのか。

 

ものすごく嫌な光景だ。
少し立ち止まって考えてみてもいいのではないかと思う。

 

もちろん、一部の親がそうした指導を支持する考えを持つことも理解はできる。

チームが強くなることや、試合に勝つことが期待されるからだ。

 

そして、そうした親たちの多くは、自分自身も同じような指導を受けてきている。

「耐え抜いて壁を乗り越えた」という経験は、とても強く残るものだからだ。


あのとき、自分は何をしていただろうか

私も、同じような環境でサッカーをしてきた。

 

怒鳴られることもあったし、叩かれることもあった。

 

その中で技術を身につけてきた、という実感も確かにある。

 

ただ、その指導方法をそのまま肯定できるかというと、

正直なところ、そういう気持ちにはなれない。

 

では、なにが違うのだろうか。

 

おそらく、当時の自分を少しだけ客観的に見られているかどうか、

その違いなのだと思う。

 

あのとき、自分は本当に理解してプレーしていたのか。

 

それとも、

怒られないように動いていただけだったのか。

 

振り返ると、その両方があったように思う。

 

 

社会病理学や家庭内暴力の男性加害者の支援に関わってきた
中村正 立命館大学特任教授は、

体罰について「相手をコントロールする手段として働きやすい」と指摘している。

 

この言葉を借りるなら、

私たちが「指導」と呼んでいたものの中には、

理解を促すものではなく、

コントロールするための関わりも含まれていたのかもしれない。

 

行動は変わる。

 

でも、

それが理解につながっていたのかどうかは、別の問題のように思う。

 

過去の耐え抜いた自分を認めることは大切だと思う。

 

ただ、時代が変わり、研究も進み、よりよい関わり方が示されている中で、

それを知ろうとせず、指導に生かさないとしたら、

それはどこかで立ち止まってしまっているとも言える。


自分の中にあるものと向き合う

私がこうしたことを考えるようになったのは、妻の存在も大きい。

 

子育てをする中で、

「子どもを叩かない」ということを、お互いにきちんと決めてきた。

 

私は子どものころ、親にぶたれ、指導者にもぶたれて育ってきた。

 

だから正直に言うと、

頭に血がのぼると、手がわなわなと震えるようなことは、いまでもある。

 

衝動が、まったくないわけではない。

 

でも、そのたびに思い出す。

 

ここで自分に負けてはいけないこと。

 

妻との約束を守ること。

 

そしてなにより、

叩くことで物事は前に進まないということ。

 

社会にひそんでいる暴力的な指導の肯定は、

外にあるだけではなく、

自分の中にもあるものだと思う。

 

それをきちんと認識することが、まず大事なのではないかと感じている。


子どもを「一人の人間として見る」ということ

ここで、もう一つ考えてみたいことがある。

 

子どもを、一人の人間として見るということだ。

 

言葉としては当たり前のように聞こえるが、

実際にそれをやろうとすると、簡単なことではない。

 


関係を取り戻すという考え方

カンヌ国際映画祭で主演の2人が女優賞を受けた映画『急に具体が悪くなる』があるが、
フランスで生まれた「ユマニチュード」というケアの話が出てくる。

 

考案者の一人、イヴ・ジネスト氏は、

精神疾患のある人がモノのように扱われている様子を見て、

思わず涙を流したという。

以前、私も高齢者施設で研修を受けたことがある。

 

時間に追われる中で、

本人の意思にかかわらず、服が脱がされ、シャワーを浴びさせられていく。

 

声をあげているのに、そのまま流れの中で進んでいく。

 

別の場面では、

口を閉じようとする人に対して、

無理やり食事が口に入れられていく様子も見た。

 

その場にいただけの自分が、軽々しく評価できるものではないと思いながらも、

それでも、あの光景には、どこか「おぞましさ」に近いものを感じた。

 

ああ、人が人として扱われていないと感じるのは、こういうときなのかもしれない。

 

そんなことを思ったのを覚えている。

 

ユマニチュードは、そのような状況の真逆にある考え方だ。

 

目を見ること。
名前を呼ぶこと。
優しく触れ、その人の思いに耳を傾ける。

 

そうした関わりを通して、

相手が「自分は人として扱われている」と感じられるようにする。

 

映画の中でも、

認知症の高齢者に対して、ゆっくりと関係を築いていく場面が描かれているという。

 

時間も手間もかかる。

 

それでも、その関わりの中で、

これまでにない心の交流が生まれていく。

 

 

この技法は、ケアの現場のためのものかもしれない。

 

ただ、

「人は人として認められたい」という根源的な欲求があるんだと気づかされる。
この原則に立たないのなら、
どんな指導もゆくゆくは受け入れられない、とん挫するということだ。

サッカーの指導でもそう、
子どもを尊重することは指導者として、
人として求められる最低限のことと認識すべきなのだと思う。


指導することと、尊重すること

子どもも、高齢者も、モノではない。

 

それぞれに意思があって、考えがあって、感じていることがある。

 

その前提に立ったとき、

大きな声で叱ることや、恐怖で動かそうとすることは、

すでに違ったものなのだ。

 

中村教授もまた、対等な関係の中で関わることの重要性を指摘している。

 

支配するのではなく、近づくこと。
寄り添うこと。

 

この違いは、思っている以上に大きい。

 

私が暴力的な指導に嫌悪感を覚えるのは、

かつて見た「人をモノのように扱う光景」と、

どこかで重なってしまうからなのだと思う。


そんな指導は必要ないということ

人は、生まれてから死ぬまで、

一人の人間として尊重されるべき存在なのだと思う。

 

それが子どもであっても、高齢者であっても変わらない。

 

もちろん、すべてを理想通りにできるわけではない。

 

ただ、怒鳴る指導で、子どもがサッカーを辞めていく。

 

その状況に対する答えは明確だ、

それはもうやっちゃいけないことだし、

子ども、保護者、コーチ…そもそも一体誰が得をするんでしょうか? 

takeisan

ギャラクシー賞監督で現役のテレビディレクター。アナウンサーなどの採用面接官も務める。人口40万の市大会3位のMF。小中高の教員資格。週末は8歳の息子を追う「少年団パパ」。独自の観察眼で、少年団サッカーと将来の「選ばれる力」の意外な関係をドキュメンタリー風に綴ります。

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