スパイクを叩く音が、消えた街で。

“見る目”

僕らが子どもだった頃、
雨上がりの月曜日の放課後には、決まった儀式がありました。

泥だらけでカチカチに乾いたスパイクを、
近所の電信柱や地面に、バコバコと叩きつける。
剥がれ落ちる泥の塊を見て、「よし、きれいになった」と。

当時のコーチは言いました。
「水で洗うな。お湯なんて言語道断だ。皮が縮んで、履けなくなるぞ」
だから僕らは、頑なに「乾かして叩く」を守ってきたんです。

ヨーロッパから来た、お母さんの手つき。

息子がサッカーを始めて、久しぶりにスパイクを買いました。
雨の翌日の練習試合。
案の定、靴の裏の「スタッド(ポイント)」の隙間に、
粘土のような泥がびっしりと詰まっています。

「懐かしいな、明日まで乾かしてバコバコやるか」

そう思っていた僕の横で、
チームにいるヨーロッパ出身のお母さんが、
蛇口の水を全開にして、スパイクをジャブジャブと洗い始めました。

「えっ! 縮んじゃうよ!」
思わず声が出そうになりました。
でも彼女は、ためらいもなく泥を洗い流していく。
その迷いのない手つきに、僕は自分の「常識」が揺らぐのを感じました。

マンションの駐車場で、立ち尽くす。

持ち帰った泥だらけのスパイク。
翌日、乾いたのを見計らって外に出ましたが、
ここは昭和の空き地ではなく、令和のマンションです。

駐車場でバコバコやれば、コンクリートに音が響きわたる。
かといって、ベランダでやれば下の人に迷惑がかかるし。
結局、中途半端なままグラウンドへ持っていき、
隅っこでコソコソと泥を落としながら、僕は思いました。

「……これ、今は、違うのかな」

令和のスパイクは、タフだった。

調べてみて、少し苦笑いしました。
今のジュニア用スパイクの多くは、丈夫な「人工皮革」でできています。
縮む心配もほとんどなく、むしろ泥を放置して皮の繊維を傷めるほうが、寿命を縮めてしまう。
今は「水で洗って、日陰で乾かす」が、どうやら新しい正解みたいです。

でも、ジャブジャブと洗うようになってから、
僕はある「不思議なこと」に気づき始めました。

皮と皮の、相性のこと。

きれいになったスパイクと、いつものボール。
息子と一緒にリフティングをしてみると、
なんだか、日によって「足の吸い付き」が違うんです。

「あれ、今日はやけに滑るな」とか、
「このボールは、スパイクの表面にぐっと食い込むな」とか。

はじめは気のせいかと思ったけれど、
自分で蹴ってみても、はっきりと違う。
あるボールは、スパイクの人工皮革にガッチリと噛み合って、
カーブも思い通りにかかるし、ひっかかりがいい。
でも別のボールだと、つるりと逃げていってしまう感覚がある。

1ミリの「食いつき」が、自信になる。

実はこれ、プロの現場でも語られる「相性」の話なんです。
最近の人工皮革は進化していて、
表面に細かな凸凹(ディンプル加工)があったり、
特殊なコーティングがされていたりします。

たとえば、僕が信頼している「ペレーダ」のような表面が少しザラついたボールと、
グリップ力の強い最新のスパイク。
この組み合わせだと、雨の日でもボールが足元から離れない、
不思議な「安心感」が生まれるんです。

逆に、ツルッとした表面の低価格なボールだと、
どんなに高価なスパイクを履いていても、
リフティングの瞬間に「逃げられる」感覚が拭えません。
子どものころからこの感覚がわかっているのとわからないのでは、差がつくな、と。

泥を流して、明日へ。

スパイクを洗うということは、
その「1ミリの食いつき」を、取り戻す作業でもありました。
スタッドの間に詰まった泥を落とし、表面の汚れを拭う。
そうして初めて、ボールとスパイクの「対話」が復活するんです。

昭和の「バコバコ」というあの激しい音は、
もう、この街では聞こえないけれど。
ありがとうございました。ミア (Mia)さん。

takeisan

ギャラクシー賞監督で現役のテレビディレクター。アナウンサーなどの採用面接官も務める。週末は8歳の息子を追う「少年団パパ」。独自の観察眼で、少年団サッカーと将来の「選ばれる力」の意外な関係をドキュメンタリー風に綴ります。新連載:原爆の謎を追いかけて 公開中

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