少年団の人間関係は、ときに、
グラウンドの土埃よりも、ずっと厄介です。
仲間意識が強い組織だからこそ、
いちど歯車が狂うと、居場所を失う恐怖が襲ってくる。
すると親たちは、自分を守るために「味方」を増やそうとします。
酒の席や、何げない会話の端々に、
誰かを攻撃するトゲが、少しずつ混じり始めるんです。
でも、その先に待っているのは、
だれも幸せにならない結末です。
「排除」という名の、消えない傷跡。

もめ事がこじれて、親子がチームを去る。
残ったチームには「あの親子を追い出した」という空気が残り、
去った親子は、次の場所でその痛みを語り継ぐ。
コーチや監督は、そこには触れません。
彼らはあくまで「サッカーを教える人」だから。
大人の泥沼を仲裁する役割は、彼らの仕事の外側にあります。
結局、この「村」を平穏に保てるかどうかは、
僕たち親の、日々のふるまいにかかっているんです。
「それは、ほんとうに子どものため?」
こんなことがありました。
練習の当番を引き継ごうとしたら、
「今日は車がないから、倉庫に入れておいて」と言われる。
次の練習日、その親は来ず、結局また僕が全部準備をする……。
それが何度も続く。
正直、一言ガツンと言いたくなります。
「おかしいじゃないか」と、正論をぶつけたくなる。
役員に報告して、白黒つけたくもなる。
でも、僕はそこで立ち止まります。
「当事者」になることのリスクを、静かに計算するんです。
10分の作業で、平穏を買う。
ずるいと言われるかもしれませんが、
僕は、トラブルの当事者にはならない道を選びます。
備品を出す10分ほどの作業。
それで、親子がこの場所で笑って過ごせる「平穏」が守れるなら、
それは、とても安い買い物だと思うからです。
役員に訴えて、組織を動かそうとするエネルギーは、
ときに予想もしない方向に燃え広がり、
結局、子どもがピッチに立ちづらくなってしまう。
正義を振りかざすことよりも、
「うまく、しなやかに、やり過ごす」こと。
それが、少年団という濃密な場所で、
わが子を主役であり続けさせるための、親の配慮なのかもしれません。
最後に残る、たったひとつの物差し。
いろんな親がいて、いろんな感情が渦巻いています。
でも、迷ったときは、いつもこの問いに戻ってきたい。
「いまの自分の行動は、ほんとうに子どものためなのかな?」
正論で勝つことよりも、
子どもが明日も元気にボールを蹴れること。
それ以上に大事なことなんて、この河川敷には、ひとつもないんです。



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