ベンチのわが子。その「3年間」は、面接官には1ミリも響かない。

“見る目”

「万年補欠でしたが、3年間腐らずに声を出し、チームを盛り立ててきました」
採用試験の面接で、そんな話をされても、僕ら面接官の心は1ミリも動きません。「へぇ、そうなんだ」で終わりです。

残酷ですが、これが現実です。
「全国大会出場」という華々しい実績があれば、それは客観的な評価の対象になります。でも、「ただ頑張った」という情緒的なエピソードは、プロの世界では通用しない。

いま、ベンチで水筒を抱えている息子。
彼が10年後、僕のような面接官の前に立ったとき、その「3年間」を価値あるものに変えられるかどうか。
それは、今のこの「壁」をどう分析し、どう乗り越えようとしたか。その一点にかかっています。

成長幅という、唯一の「自分勝手な物差し」。

才能の差は、あります。
努力しても伸びる子と、あまり伸びない子は、残酷なほどはっきり分かれる。
だからこそ、親として見定めるべきは「レギュラーになれるか」という分かりやすい結果ではありません。
「あいつが、昨日よりどれだけ成長したか」という、不確実な成長幅です。

ドリブルができないなら、なぜできないのか。
ポジショニングが悪いなら、何を理解していないのか。
その「できない自分」を客観的に分析し、1ミリでも前進しようと練習を積み重ねる。

その「分析力」と「解決への執着」こそが、僕ら面接官が喉から手が出るほど欲しい「資質」の正体なんです。

そして、その分析や執着を一番底で支えているもの。
それは、スマートな理屈ではなく、泥臭い「熱さ」なのだと僕は思います。

その熱さは、けっして大声で叫ぶようなものじゃない。
日々の、取り組む姿勢に現れるものです。
「どんな時でも、寡黙に頑張り続けることができるか」
これ、実はめちゃくちゃ重要なことなんです。

光の当たらないベンチで、誰にも評価されない練習場で、それでも自分に絶望せず、黙々と、淡々と、やるべきことをやり遂げる。
その「静かな熱量」を持っている人間は、組織が本当のピンチに陥ったときに、一番頼りになる。

「3年間補欠でした」という言葉に、面接官は反応しません。
でも、その3年間の裏側に、
「自分の弱点をこう分析し、解決するために、誰にも見えない場所で、これだけ寡黙に積み重ねてきました」
という「裏付けのある熱量」が宿っているとき。
その言葉は、どんな華やかな優勝カップよりも、重く、鋭く、僕たちの心に突き刺さるんです。

壁をどう乗り越えるのか。
その試練が、いま息子にも始まっています。
そして、その「寡黙な背中」を誰よりも信じて見守る試練が、僕ら親にも始まっているのだと思います。

「修行」の向こう側にある、本当の強さ。

先日、PK戦で負けた試合がありました。
レギュラーの子が泣きじゃくる横で、一秒もピッチに立てなかった息子は、淡々と帰りの支度をしていました。
正直、あの瞬間に「学び」なんてありませんでした。あったのは、圧倒的な機会の差と、親子間のぎこちない空気だけです。

でも、あそこからが本当の「試練」の始まりなんです。
居心地の悪いベンチで、悔しさをガソリンに変えて、コツコツと自分を磨き直せるか。
「活躍する方がいいに決まっている」という本音を握りしめたまま、泥臭くレギュラーを目指して歩んでいけるか。

親は「伴走者」として、泥を這う。

僕たち親も、修行の身です。
子どもの自信なさげな顔に胸を痛めながらも、安っぽい同情で逃がしてはいけない。
「頑張ったからいいよ」と慰めるのは簡単ですが、それはあの子の武器を奪うことでもあります。

「レギュラーを目指そう。そのために、今の自分に何が足りないか一緒に考えよう」
そう言って、一緒に泥を這う。
才能の限界にぶち当たっても、その壁をどう「攻略」しようとしたか。そのプロセスの濃度だけが、将来、あいつが社会という荒波に漕ぎ出したとき、自分を支える最強の履歴書になる。

今週末も、おそらくわが子はベンチでしょう。
でも、僕は「1ミリの成長」を、誰よりも厳しく、そして誰よりも熱く見守るつもりです。

takeisan

ギャラクシー賞監督で現役のテレビディレクター。アナウンサーなどの採用面接官も務める。週末は8歳の息子を追う「少年団パパ」。独自の観察眼で、少年団サッカーと将来の「選ばれる力」の意外な関係をドキュメンタリー風に綴ります。新連載:原爆の謎を追いかけて 公開中

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