連載:原爆の謎を追いかけて 

原爆の謎を追いかけて

第1話:1945年5月5日、教授室の沈黙。

私は今、90代で亡くなったある男性の声を聴いている。
Mさん。
1945年、20歳だった彼は京都帝国大学(現・京都大学)の学生だった。
冶金学(金属学)の権威・西村秀雄教授のもとで学んでいた彼が、生涯胸に秘め続けてきた「あの日」の記憶。
そこには、僕たちが知っている歴史の教科書には決して載らない、生々しい「空白」があった。

予言された、広島の壊滅。

「お前は広島の市内に親がおるんか」
西村教授に呼び出されたのは、1945年5月5日のことだった。
5月の爽やかな風が吹く日。10畳ほどの教授室には、西村教授、後のノーベル賞学者・湯川秀樹博士、そしてMさんの3人だけがいた。

教授は静かに、しかし断定的にこう言ったという。
「すぐに疎開させろ。何にも聞くなよ。40年間、誰にもしゃべるな」

5月。広島に原爆が投下される3か月も前のことだ。
当時の広島は「軍都」と呼ばれ、兵士たちがひしめき合っていた。不思議なことに、それまで一度も空襲がなかった街だ。
誰もが「日本は勝つ」と信じていたその時に、日本の科学のトップたちは「広島が危ない」ことを、すでに知っていたのだ。

20歳の学生と、60歳の父親。

Mさんは、その足で故郷の広島へ向かった。
「負けるから、早く逃げてくれ」
20歳の学生が、60歳の頑固な父親を説得するのは容易ではなかっただろう。
「お前は偉い学校に行っているから、言うことを聞こうか」
最後はそう言って、父親は宮島の手前の廿日市へ疎開することに同意した。

これが、生死を分けた。
もし西村教授が口を開かなければ、もしMさんが父親を説得できなければ、彼らの命はあの日、広島の業火に消えていたはずだ。

沈黙という名の「十字架」。

戦後、Mさんはこの話を誰にもできなかった。
「自分だけが知っていて、自分だけが助かった」
その事実は、親戚のほとんどを原爆で失った彼にとって、あまりに重い十字架だった。
親戚にも言えなかった。
特高警察の影に怯え、戦後は生き残った者の負い目に苦しむ。
西村教授もまた、死ぬまで家族にすらこの話を明かさなかったという。

なぜ、西村教授はMさんにだけ教えたのか。
なぜ、湯川博士はその横で黙って聞いていたのか。
情報の出所は、原爆開発に関わっていたシカゴ大学の冶金工学の科学者だったのではないか……。
Mさんはそう推測し、遠くを見つめていた。

(1945年6月、シカゴ大学の科学者(ジェイムス・フランクら)は、マンハッタン計画の成果である原爆の「無警告での対日使用」に反対する「フランクレポート」を、トルーマン大統領の諮問委員会に提出。)

ボイスレコーダーの中で、Mさんは静かに語り続ける。
「本当に知らされないのは、いつも国民ですよね」
その言葉が、終戦から80年以上が経った私の胸を、突き刺す。

takeisan

ギャラクシー賞監督で現役のテレビディレクター。アナウンサーなどの採用面接官も務める。週末は8歳の息子を追う「少年団パパ」。独自の観察眼で、少年団サッカーと将来の「選ばれる力」の意外な関係をドキュメンタリー風に綴ります。新連載:原爆の謎を追いかけて 公開中

takeisanをフォローする
原爆の謎を追いかけて
シェアする
takeisanをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました